ダーダネルス海峡突破作戦

1915年初めに、英仏連合軍とドイツ軍の戦う西部戦線の戦局は沈着状態が続く。そこに、ドイツの同盟国として、新たにトルコが加わる、連合軍は負担がのしかかる。これを打破すべく、英国海軍大臣チャーチルは、有力かつ優秀な海軍をもって地中海からダーダネルス海峡を突破し、トルコの首都コンスタンチノープルを一挙に制圧するという大胆な作戦を提案する。
大胆な作戦であるため、周りの者達には理解を超えるものであった。だが、牽制作戦として1915年2月には、準備にこぎつけた。
ダーダネルス海峡は通行の要所である。アジア側のアナトリア半島とヨーロッパ側のガリポリ半島に狭まれた地形となっている。
戦前から、トルコ軍の要塞が存在し、三六センチ〜一五センチ各種火砲が100門が備え付けられている。そして、海峡内では機雷が設置されているため、
まずこれらを無力化しなければならなかった。
作戦は2月19日に開始された。戦艦、巡洋戦艦一隻、準ド級戦艦二隻、フランス海軍の四隻を含む前ド級戦艦一四隻を主力とした艦隊が海峡のガリポリ半島を砲撃する。
続いて25日、前回の攻撃では火砲と施設に砲撃効果が不十分であったとされ、英軍が再度の攻撃を敢行する。
翌日、英海軍は、破壊活動のため、砲撃に加えてガリポリ半島に陸戦部隊を上陸させる。陸戦部隊のおかげでサーチライトと火砲を破壊できた。これにより、作戦成功を予見し、ガリポリ攻撃部隊から、3月14日にはコンスタンチノープルに進出可能と報告が入り、英海軍省喜びに充ち溢れる。作戦の反対をしていたフィッシャー軍司令部長も自ら現地へ向かうと言い出すのだった。
が、しかし、3月18日フランス軍艦を含む英艦隊が海峡に突入すると、フランス戦艦一隻を含む戦艦三隻が沈没した。機雷の餌食となったのだ。掃海するため、民間トロール船に任せたが、トルコ側も防衛線に不安を感じ野戦重砲を配備し、妨害し始める。
このことで陸戦部隊を両方の海峡へ占領し、砲台を無力化し通過するといった作戦に変更する。
一度、ギリシャのレムノス島へ引き上げ、エジプト、アレクサンドリアで上陸作戦を実行する。
ガリポリ半島攻略に着手する。上陸作戦は本格的なものなため、英本国でフランス、ロシアの利害関係の調整作業も必要だった。さほど時間がとれぬままであり、そして、情報漏れが生じ、トルコ軍の防衛が固まる一方であった。
1915年4月25日、ガリポリ上陸作戦が開始される。
コンスタンチノープル派遣軍とよばれる英仏連合の上陸部隊の指揮にイアン・ハミルトン将軍が
任命される、その指揮下の英軍第29師団がダーダネルス海峡北側のガリポリ半島先端のへレス岬付近5か所に上陸するがオスマン軍の反撃に阻まれ2か所では撤退し、3か所が海岸を確保するにとどまった。アンザック軍はガリポリ半島北側のエーゲ海に面した入り江に上陸を敢行するがオスマン軍の猛威を受け、苦戦を強いられづつも確保する。後にここはアンザック入り江と呼ばれる。
また英国海軍陸戦師団とフランス軍部隊はアジア側の海峡へ陽動作戦を試みた。
作戦が長引くにつれ英仏連合軍には後方支援という問題が浮上してきた。砲弾は不足し、一日に二発が砲一門に振り分けられのも困難になる。膨大な補給物資を揚陸させるため、仮設桟橋や沈没船で防波堤をつくったりと、後の第二次世界大戦のノルマンディー上陸作戦に生かされる。
地上では塹壕戦となり、海では潜水艦、航空機が活躍する。
英軍で潜水艦を投入するが、ドイツ軍のUボートが投入され、その驚異に撤退しなくてならなかった。
この後、連合軍司令達との作戦タイミングが合わず、失敗に終わる。
参考文献及び関連書籍
「歴史群像シリーズ」
著者 瀬戸利春 (2008) 『【図説】戦略・戦術・兵器詳解 第一次世界大戦 上』 pp40−pp46 (学習研究社)
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