マルヌ会戦
1914年9月5日〜14日
ドイツ軍 対 フランス軍、イギリス軍の戦い、ドイツはロシア、フランスを相手にするため二正面作戦を決行する、それは、参謀総長アルフレート・フォン・シェリーフェンが東と西に別れ兵力を割いて戦うしかないドイツ軍のため、あみだしたもの、東部戦線は兵力を約一割あまりを展開させるなぜならばロシア側は国土の広さにより、動員に時間がかかる事を知っていたためである。その間に総兵力約9割を西部戦線に集中させ、動員が早いフランス軍をたたく、そしてその後に東部戦線に全兵力を送り、ロシア軍をたたくといった二段構え構成の作戦、これが「シェリーフェン・プラン」である。彼等の目的はパリである。

対するフランス軍は精神主義、「第一七号計画」(プラン・17)である。兵力が劣っていたため物理的な劣勢を強固な精神で優勢に立つことにより兵力上の問題は克服されるといったものであった。それを反映し、ドイツ本土に積極的攻撃を与えるといった形をとる。
だがこれはドイツ軍の策略道理の形へとはいりこみ、作戦上、ドイツ側が優位に立つ事となる。


リエージュ要塞の攻略戦闘

1914年、8月4日にドイツ軍はフランスに進軍するにはまず国境に位置するベルギーに侵攻しなくてはならなかった、そのため、当初の計画通りに進めていった。しかし、ドイツ軍から、攻撃に備えていたベルギー軍は、ミューズ河沿いにリエージュ周辺に要塞を築いていた。これに対して、完全な動員を待たず僅かなる数の兵力を進撃させた(八個旅団)。そして急襲は深夜に開始された。しかし、この厳重なる要塞の防御された堡塁は少数の突撃部隊では攻略困難であったため、攻城戦用の重砲を投入し、堡塁の砲塔や火薬庫を破壊し、陥落させる。ここで、浪費した時間を取り戻すために主力のベルギー軍を撃破し、パリへと向かう。

モンスの戦い

フランス軍は8月7日から当初の計画通りアルザス・ロレーヌ方面などでドイツへの攻撃を開始した。ところが、フランス軍兵士の果敢な縦隊突撃はドイツ軍の機関銃などによって、いとも簡単に粉砕されてしまった。そのうえ、これをチャンスと見て反撃に出たドイツ軍に攻撃を仕掛けてさらに損害を重ねた。
しかし、この大失敗に終わった攻撃作戦も、ドイツ軍の予備兵力を引きつけるという予期せぬ効果を上げていた。ドイツ軍は、アルザス・ロレーヌ方面では防御に徹して兵力を節約するとともに、フランス軍の攻撃を撃退したら、兵力をベルギー方面へ進軍させることを考えていたが、フランスの攻撃失敗をチャンスと見て、兵力を右翼へ送らずに反撃を始めてしまったのである。一方、ベルギー方面では、ドイツに宣戦を布告したイギリスの海外派遣部隊(British Expeditionary Force 通称BEF)が前線に到着する。ドイツ軍右翼の先頭に立って進撃するアレクサンダー・フォン・クルック将軍率いるドイツ第一軍とモンス運河付近で激突した。この時、BEFはドイツ第一軍の半分程度の兵力しかなかったにもかかわらず、ドイツ軍の進撃を一旦は食い止めた。ところが、BEFの右側面に展開していたフランス第5軍がアルザス・ロレーヌ地方と同様に無謀な攻撃に失敗して退却を始めたため、BEFもがら空きになった側面を放置できず、後退を余儀なくされた。ドイツ第一軍司令官フォン・クルックは英仏両軍の崩壊をチャンスと思いこむ、撤退中の敵をパリの手前で旋回して右側に回り込み敵軍の翼側を包み込む「包翼」と呼ばれる機動戦略を開始した。しかし、展開が早ずぎて補給物資が追いつかず不足していた。そして先頭を行く第一軍と第二軍には隙間があり、的に突かれると危険な状態であった。増援部隊も今さら反撃を始めたロレーヌ方面から抜き出すこともできず、東部戦線ではロシア軍の迅速な動員のため、攻撃が早期に始まり、逆に西部戦線から、増援を送り出さなくてはならなかった。つまり、ドイツ軍はこのまま、パリへの大回りの突進が持続不可能であった。
この後8月30日にドイツ軍はパリ手前で旋回する。この瞬間、「シェリーフェンプラン」の目論見は潰えたのである。

マルヌの戦い

英仏連合軍は退却中の第5軍とBEFに新編された第6軍を増強して、パリ北方のソンム河付近でドイツ軍の進撃を阻止すべく防衛する。しかし、失敗し、東方のマルヌ河方面まで押し込まれてしまった。ところが、これによってドイツ第一軍、フランス軍のパリ防衛軍に無防備な側面をさらすことになった。このパリ防衛軍は、北アフリカの植民地師団や老兵揃いの予備師団などの寄せ集め立ったが、第六軍の指揮下に入り増強される。パリ市内のタクシーが大動員されて、戦線後方の部隊が前線へ次々と送り込まれた。これが史上初めての自動車による大規模な軍隊の輸送作戦といわれている。

9月6日、マルヌ河方面で英仏連合軍による本格的な反撃が開始する。パリ防衛軍に組み込まれた。フランス第6軍は、ドイツ第一軍の右側面を攻撃。
これに対応してドイツ第一軍が右に寄ったため、左となりの第二軍との大きな隙間があく。そこをすかさずフランス第5軍とBEFが攻撃、4日間の激闘の末にドイツ軍を交代へと追い込んだのである。こうして圧倒的な連合軍の反戦攻勢は成功し、のちに「マルヌの奇跡」と呼ばれる。ドイツ軍の包翼l行動を阻止した。

そのご両軍はお互いの側面に回り込もうとして、自軍の翼側の部隊を先へ先へと展開させる「延翼競争」を続け、ついには、スイス国境から、英仏海峡まで、戦線が出来上がる。そして、まず先に息切れしたドイツ軍が塹壕を掘り始める、その後、フランス軍も塹壕を構築し始める。塹壕の深さは、初め人が隠れられる程度であったが、やがて地中奥深く掘り進められるようになり、数日間の猛砲撃にも耐えられるほどに強化された。

塹壕は第一線の塹壕陣地が突破された場合に備えて、後方に第二線目、第三線目の塹壕陣地が構築され、両軍とも戦線の大突破がほとんど不可能となる。
これにより膠着状態が発生し、4年間の塹壕戦へと移行していった。

参考文献及び関連書籍
「シリーズ20世紀の記憶」
クロニクル編集部 (1999) 『第1次世界大戦―1914-1919 (毎日ムック―シリーズ20世紀の記憶)』 毎日新聞社
「歴史群像シリーズ」
著者 田村尚也 (2008) 「マルヌ会戦」 『【図説】戦略・戦術・兵器詳解 第一次世界大戦 下』 pp16−pp22 学習研究社

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