大攻撃という名の犠牲


1915年「大攻撃」の計画が連合軍の首脳会談で話されていた。それはソンム河の一帯にドイツ軍の防御が厳重なる地域とされており、大きな攻撃にでるのにふさわしいと思われており、マリクール付近の南と北にイギリス軍、フランス軍、両軍の結節があったためである。
所が1916年2月21日、ヴェルダンでドイツ軍の大攻勢が開始される。これは10ヵ月も続く、フランス軍はこちらの防衛で大量に兵を裂き大攻撃どころではなくなってしまった。そのためイギリス軍にその役目を担ってもらう事になる。
イギリス軍は世界中に植民地を有し、一大帝国または海洋国家である、海軍力の維持と充実には伝統的に力を入れていた。陸軍に関しては職業軍人が主体となり、質は高いが海軍力には劣る。
そのためこの大戦では正規軍が中核で、小規模で戦う技量で補う事が出来た。しかし彼等を前線で消耗しては今後の戦いを考え陸軍大臣キッチナーは、志願兵を増やすべきだと案を出し決行された、志願兵は「ニューアーミー」と称され他の兵とは区別された。しかし彼らの実力は未知数であった。そして、第4軍を新編した。戦略はとしては、入念なる準備砲撃の後、イギリス軍がドイツ軍前線防衛陣地に攻め込み第2塹壕陣を突破し次々陣地を奪取するということとなった。そして7月1日 0700時に計画は開始された。砲撃は明るいうちに行えば夜明けのうす明りで奇襲効果発揮できることを期待し開始した。フランス軍が砲撃をはじめ30分後に突撃することとなっていた。しかしこの時間がドイツ軍に装備品の備える時間を設けてしまった。そのころイギリス兵は砲撃の音がやみ数分の静けさのなか、突撃の時間を待っていた。下級将校の笛の音が聞こえ次々と壕から這い出る兵士たち、横並びに展開しのろのろと敵塹壕で向かうがドイツ軍の機関銃は「ニューアーミー」達をバタバタと倒していくのであった。兵達のほとんどが被害を受け、突破はできなかった。
9月15日、世界初の戦車が60両の投入される。故障などにより、力を発揮出なかったが、ドイツ軍をパニックに陥れた。

参考文献
著者 白石 光 (2008) 「ソンムの会戦」 『【図説】戦略・戦術・兵器詳解 第一次世界大戦<下>』pp12―15学習研究社
著者 樋口隆晴 (2008) 『歴史群像アーカイブvol3 ミリタリー基礎講座U現代戦術への道』 pp44−pp52 学習研究社


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