ヴェルダン攻防戦

ゲルマンの西の門と言われたヴェルダンはローマ時代からの古都で、西暦843年にフランク王国を三分しドイツ、フランス、イタリアの基礎を築いたヴェルダン条約締結の地である。そのため、ファルケンハインは必死の防衛線をフランスは行うと予想してた。
しかし、フランス陸軍は戦略的価値を重視しておらず、ベルギー、ロシア、オーストラリアの要塞が早期に陥落したことからヴェルダンの放棄論をなども唱えていた。だが、フランス国内の世論がそれを許さず、ヴェルダンを守れといった声に押され始め防衛強化に乗り出した。そして、矢先にドイツ軍の攻撃が開始する。1916年2月21日、午前7時、ドイツ軍の重砲、野砲約1815門がヴァルダンの正面めがけて一斉射撃が開始される。ヴェルダンの戦いは「吸血ポンプ」とよばれるほどの激戦地になった。
ヴェルダン攻防戦は要塞攻防戦として知られるが、ドイツ軍参謀総長ファルケンハインの真の目的はヴェルダン要塞の陥落ではなく、攻撃して、フランス軍を消耗戦に巻き込み、戦力の低下を狙うものである。彼は膠着状態の塹壕戦を国々が持つ巨大なる攻城戦と捉えた。一気に決着がつかないのなら、消耗戦に持ち込むしかないと考えた。

ドイツ軍攻撃兵力は6個師団、対するフランス軍防御兵力は3個師団。規模では大戦の中では小さかった。
2月21日、ドイツ軍は昼の間砲撃を続け午後四時に停止、フランス軍防衛線を急襲した。これまで塹壕戦では予め敵陣近くまで攻撃用の塹壕を設けておくことが常識であった。しかし、ドイツ軍はこれを設けずに、500メートルの離れた場所から攻撃を開始する。この奇襲で、フランス軍守備隊はあわて対応がするのに困難であった。ドイツ軍は火炎放射機を携帯し偵察隊は先行させる、砲撃効果が不十分なことを確かめると慎重に攻撃を行った。これにより防衛拠点は陥落、前進地は破られてしまった。
しかし、三重に構成された防衛陣地は容易ではないため、敵の反撃も、砲兵の援護をメインにし歩兵の消耗を抑えた。

2月25日、ドイツ軍はフランス軍の不意を突いてドゥオーモン堡塁を占領した。要塞の数ある堡塁のひとつを占拠したところで戦力的意義は薄いが、格好の宣伝材料として宣伝された。国々の意思表示の文書コミュニケで宣伝される。イギリス軍事評論家であるリデル・ハートが批評したように茶番であるが、総力戦では宣伝戦もまた重要な要素であったのだった。
当初、ドイツ軍の攻撃をシャンパーニュで実施される攻勢のための陽動と捉えていたフランス軍上層もこのころから危機感を抱き始め、ペタン将軍が防衛司令官となり積極的に部隊投入を開始した。ファルケンハインの目的通りフランス軍は術中にはまった。そのころ攻撃側のドイツ兵たちは悲観的な空気が漂っていた。ファルケンハインの意図をしらずにいたため、全力で「ヴェルダン要塞の攻略」をしている兵士達には悲観的だった。

3月4日、攻撃軍司令官であるドイツ皇太子ヴァイヘルムはヴェルダン占領に最大の努力を払う。二日後に攻撃を再開したが。がむしゃらな攻撃はファルケンハインの意図するところではなかったが、相手が皇太子では覆す事も出来ない。
最初の攻撃正面がミューズ河東岸だけであったのに対し、今度は西岸からの攻撃も加えられた。両者ともに攻撃規模が拡大するにつれ兵力の増大が図られた。ペタンは個々の防衛部隊の負担を軽減すべく、新手の78個師団を送り込み、疲弊した部隊を交代させる。
鉄道や道路がほとんど砲撃で利用できない中、フランス軍は補給を「聖なる道」と名付けられた一本の道をとおり人員物資の輸送を依存した。約8000両の自動車をかき集め物資を前線へ滞りなく送った。

参考文献及び関連書籍
「シリーズ20世紀の記憶」
クロニクル編集部 (1999) 『第1次世界大戦―1914-1919 (毎日ムック―シリーズ20世紀の記憶)』 毎日新聞社
「歴史群像シリーズ」
著者 田村尚也 (2008) 「マルヌ会戦」 『【図説】戦略・戦術・兵器詳解 第一次世界大戦 上』 pp40−pp46 学習研究社


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