第一次世界大戦で指揮をした将校達


ドイツ軍
ヘルムート・ヨハン・ルートヴィヒ・フォン・モルトケ
ドイツ陸軍上級将校。プロイセン陸軍参謀総長ヘルムート・カール・ベルンハルト・フォン・モルトケの甥にあたる。伯父は大モルトケ、彼は小モルトケと区別される。彼は第一次世界大戦に計画された二正面戦争計画シェリーフェン・プランに修正案を立案、そして実行に移した。彼の行動により大戦が勃発した。1913年に彼は心臓に病をもっていたが医者の勧告も拒否し大戦に参加、そのため他の参謀将校も驚きを隠せないほど衝撃だった。1914年に参謀長を辞任した。



エーリッヒ・フォン・ファルケンハイン
西プロイセンの都市グラウデンツ近郊のブルクベルハウ出身。士官学校を卒業後、1880年にオルデンブルク歩兵連隊に少尉として任官。1890年には参謀本部に配置される。アルフレート・フォン・ヴァルダーゼー将軍麾下の東アジア派遣軍の参謀となり、1896年に清朝中国に士官学校の教官として赴任し、1900年の義和団の乱に遭遇。1903年まで赴任。ドイツ各地の任地に配置された後の1913年、プロイセン王国の戦争大臣となった。
ドイツ陸軍参謀大将であり、プロイセン陸軍大臣であったが、小モルトケの死により参謀総長の任を任される戦争指導を担当し東と西の戦線で決定的な勝利は出せていないが戦果はそれなりの結果を残す、ヴェルダン戦で多大な犠牲を出した形で辞職。1916年にヒルデンブルク総長に後を引き継がせる。彼は代々軍事家系であり、ヴァイヘルム二世のお気に入りの存在であった。アジアで勤務歴があり、中国の士官学校の教官であった珍しい人物。1916年から17年にルーマニアでドイツ軍を指揮したり、パレスチナでトルコ軍を主とした兵力でイギリス軍に立ち向かうが、攻勢を止められず1918年に解雇される。


マンフレート・アルブレヒト・フライヘア(男爵)・フォン・リヒトホーフェン
第一次世界大戦の空中戦で前人未踏のスコアである80機撃墜を達成した人物。
彼はその脅威的な撃墜数故に異名がつけられた。赤く染め上げた「フォッカーDr.I」を駆ることで知られている。
ドイツでは Der rote Kampfflieger (赤い戦闘機乗り)
フランスでは Le petit rouge (小さな赤)、Diable Rouge (赤い悪魔)
イギリスでは Red Knight (赤い騎士)、Red Baron (赤い男爵)いう名で呼ばれた。
彼はシュレジエン地方のブレスラウにリヒトホーフェン男爵の子息として生まれた。9歳で家族と近くのシュヴァイトニッツに移り、狩猟や乗馬を楽しむ少年時代を送った彼は、士官学校に通い1911年に卒業した後、ロシア皇帝アレクサンドル3世を冠するヴェストプロイセン第一槍騎兵連隊に配属された。

第一次世界大戦勃発後、リヒトホーフェンは東部戦線および西部戦線で馬を駆り、敵情偵察に活躍したが、機関銃と鉄条網の陣地戦では、騎兵の活躍の場は少なくなっていたのだった。リヒトホーフェンは補給部隊にまわされ、1915年5月には航空部隊への転属を申し出、偵察機に乗る偵察員として地上監視や銃撃を行うこととなった。当時のエース・パイロット、オスヴァルト・ベルケとの出会いをきっかけに、偵察員から戦闘機パイロットのために向上心が生まれた。1916年3月、ベルケは自らの率いる第2戦闘機中隊にリヒトホーフェンを配属した。彼の最初の空戦は1916年9月17日、フランスのカンブレー上空である。1916年11月23日、当時のイギリスのエースパイロット、ラノー・ホーカー少佐と交戦、45分に及ぶ激闘の末に勝利して有名になった。同月、彼はエリート・パイロットたちで編成される第11戦闘機中隊の中隊長に任命されたのだ。この中隊の機体には、戦闘中に敵味方を簡単に識別できるよう各パイロットごとに異なった塗装が施され、リヒトホーフェン機は全体を赤に塗られた。この事で敵国にも「赤い戦闘機乗り」として知られるようになる。
1917年6月24日、第1戦闘航空団 (JG1)が編制され、司令に任命されたマンフレートは部下達にベルケが提唱した空中戦理論を教えることで隊全体のスコアを上げていた。そのため第1戦闘航空団は多くのエースを輩出し、連合軍から「フライング・サーカス」、「リヒトホーフェン・サーカス」と恐れられた。
1918年4月21日、ソンム川付近での空中戦でイギリス第209戦闘機中隊アーサー・ブラウン大尉の機体からの銃撃で戦死。最終階級は大尉であった。


フランス軍

ジョッフル
1914年から16年にかけて西部戦線でのフランス陸軍総司令官を務める。
「マルヌの奇跡」の立役者である。過去は普仏戦争でのパリ防衛に下級将校として参加し、次いでインドネシア、西アフリカ、マダガスカルで勤務したのち、1911年4月、参謀総長に補職される。
このポストに在職中に、「青年トルコ党」と称される若手将校たち鼓吹する攻勢主義の教条安易に乗ったため、大戦で敗北の淵に沈みかねた。また、ドイツ軍にフランス領深く侵攻されるのを許した、災厄の種
「第17号計画」を承認した責任が大きかった。彼の総長就任はもともと、適任されたジョーゼフ・シモン・ガリエニ将軍が辞退したことによる棚ぼた人事であり、ジョッフルには兵学上の定見など、総長に求められる資質は乏しかった。彼のおかげでマルヌにおいてフランス軍を救った。ジョッフルは苦境を訴える将軍たちを次々に首にしてもいる。西部戦線が沈着したのち、ジョッフルは何度もドイツ軍の陣地を突破しようと、フランス軍を構成へと駆り立てた。しかし、1915年の秋のシャンパーニュ攻勢は大きな犠牲を出して失敗した。さらに1916年のヴェルダン会戦、ソンム会戦で何ら成果が上がらず、損害の非難が多く、辞任し、元帥となる。


ペタン
フランス陸軍元帥。第二次大戦の1940年から44年まで、ヴィシー政権の国家元首であったことでも知られる。第一次大戦が勃発したとき、当時のフランス陸軍参謀本部が行った攻勢主義の教条に明確に反対の姿勢を取り、歩砲の協働に基づく防勢戦略の倫理を発展させつつあった。大戦初期は歩兵旅団の指揮を執り、その後、才能を見いだされ、1915年6月第二軍を指揮する陸軍大将に昇進する。ヴェルダンで功績をあげ、英雄と称される。後にフランス陸軍差王司令官となる。


イギリス軍

キッチナー
イギリス陸軍元帥。第一次大戦が勃発したと同時に、アスキス内閣の陸軍大臣に就任し、長期戦を予期して陸軍の大拡張並びに軍需動員の実現に精力を傾けるが必ずしも政治交渉の能力を持ち合わせているとは言え内閣の中でも支持者は少なかった。大戦中、会談のためロシアに赴く途上で、乗艦の触雷により戦死した。現在、キッチナーが人差し指を突きつけた「イギリスは君を求めている」という募兵ポスターによって、彼のイメージは固定化されている。


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